雨ニモアテズ3
『フランダースの犬』という有名な童話があります。
司馬遼太郎の「オランダ紀行」は、その前の「愛蘭土紀行」と並んで、読み応えがありました。オランダのように小さな国が、日本が近代国家に成長していく過程で、どれほど大きな影響を与えたのか、まさに驚くばかりです。あの長崎の出島でさえ、「鎖国という暗箱のピンホールの役目(司馬氏のことば)」を果たしました。
そのなかで、ふうっと息が抜けるような話があります(実際は息を抜いてはいけないのですが)。
司馬氏がオランダからベルギーに行って、アントワープ市の聖母大聖堂に詣でたときの話です。そこには、ルーベンスの「キリスト降架」という傑作があります。
日本からの観光客も、この大聖堂をよく訪れるそうです。それは、『フランダースの犬』という「十九世紀の児童文学の大きな収穫」とされる童話が、この絵の前で最後の場面を迎えるからです。
ネロ少年とその唯一の友達である老犬が、世間から見放されて、生きていく望みを失い、この教会の祭壇の前にたどり着く。そして普段は見ることのできないルーベンスの「キリスト降架」という傑作が、この最後の瞬間に、目の前に見えたのです。その前で、少年と老犬は冬の夜の底冷えの中、だんだんに冷たくなっていきます。
ところがですよ。アントワープの町の人も、ベルギーの人々も、この話をほとんど知らないというのです。作者はイギリスの女流作家ウィーダ(1939-1908)。
この童話がなぜ現地で、またイギリスで、評判にならなかったのか。司馬氏は、その原因を次のように分析しています。
「少年と犬とが、寄り添って慰めあいつつ生き、結局は疎外に打ちひしがれて死ぬのだが、・・・ネロ少年は十五にもなっているのに、なぜ雄々しく自分の人生を切り開こうとしなかったのか」
うん、そう言われてみれば、確かにそうだ。
「自立、個人の独立ということばには、他人に支配されないこと、自分で考えて行動すること、他人の権威を借りないこと、他に依存しないこと、他人の援助をあてにしないこと」
「そういう近代の美徳に、わが『フランダースの犬』は、適わなくなったのである」(p427)
つまり、自分は何もしないで、他の人に責任を転嫁する人間は、人間としての存在を認めるわけにはいかないということでしょうか。
ヨーロッパの国々を賞賛するつもりは、まったくありません。現在、イギリスもフランスも、移民だけでなく、自国の人々の中でも、さまざまな問題を抱えていて、あえいでいます。そのエネルギーが、外に行くのか内に向うのかわかりません。でも、現状を打ち破ろうという意欲を、そして、そのエネルギーの存在そのものを、高く評価しようという文化を、うらやましく思うことはありませんか。
注 司馬良太郎 「オランダ紀行」『司馬遼太郎全集61』文芸春秋社 1999
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