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あとがき

 『ボケないで生き抜く2』は、昨年の八月一〇日から書き始めました。毎週二回の投稿を続けましたが、このシリーズは、とりあえずここで終わりにしたいと思っています。

 『ボケないで生き抜く1』の方は、定年後の迷いが多かったと思います。それに妙に肩に力がはいっていたのではないでしょうか。今回は、大分落ち着いてき来たように思います。

 いろいろな方からお便りや激励をいただいて感謝しています。

 先日のことです。「ブログをやっている」と、つい教室で言ってしまいました。すると、学生たちの目がいっせいに私のほうに集中したのです。「タイトルは」

一瞬言おうかやめとこうかと迷いました。でも、言わないと嘘になる。

「『ボケないで生き抜く』だ」

というと、まるで、風船の空気が一気に抜けるように、緊張がなくなってしまいました。

 若い者にとっては、「ボケないで生き抜く」なんて、考えたこともないんですね。そう、一般の人にとっては、まったく関心がないことでしょう。

 ただ、冒頭にも述べましたが、男性の健康寿命は七一、九歳、そして、女性は七七、二歳でしかありません。その後は、寝込んでいるか、ボケているか。つまり、自分の意思では動けない人生、つまり、単なるつけたしになってしまいます。

 そう思うと、今このように体も頭も一応動いていることに、心から感謝すべきだと、あらためて思います。

 このシリーズを最初から読み直して、語句の訂正をし、一冊の本にまとめます。この作業には一ヶ月ぐらいはかかるでしょう。

 八月の下旬には、新しく「ボケないで生き抜く3」をスタートするつもりです。これまで付き合ってくださった方がたに、心から感謝します。ありがとうございました。

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偕老同穴4

「 料理をするから、女性は男性よりも長生きをするんだ」

そう言ったところ、言下に否定されました。

 料理は確かに面倒くさいし大変だけど、日常生活でこれほど創造的な作業はないのではないか。男性も積極的に参加すべきでしょう。

 べつに凝った料理でなくても、ごく普通の料理の一部を作る。それでいいのではないでしょうか。

 朝、その日の気分にあった種類の豆を挽いて、コーヒーをいれる。旬の野菜を使ってスープの一品を作る。このような何気ない細かいことでしょう。

 スープといっても、私が作るのは、カルシュームを補うためにわざわざ煮干を使ってだしをとり、野菜を刻んでいれるのです。

 煮干は、使う前にレンジで一分チンとすれば、臭みが取れる。そう聞いたら、実際にやってみる。うん、なるほど上品な味になる。今朝もやってみました。ところが、火がついていると思ったガスがついていなかったのです。いつもは、三〇分前に煮干を水に入れます。それからかなり長い間煮ます。ところが今日は、それが出来なかったのです。それなのに、すっきりした味が出ている。

「今日はいい味が出てるね」

「ガスの火が点いていなかったんだ。半分ぐらいの煮込みだけど、なんだかこの方がうまい」まさに、毎日が発見です。

 味覚というものは、その人の年齢や、これまで何を食べてきたかで違うものでしょう。特定の人が食べてうまいと言ったから、それがうまいというものでもありません。まして、料理番組でよくあるように、あまり手にはいらないような高い材料を使って調理し、番組の客が「うまい」と、いかにもうまそうに演じてみせる。そんなばかげた料理は、フェラーリに乗って、信号の多い生活道路を走ってみせるようなもんでしょう。

 台所に入ると、別のよいこともあります。包丁が切れないことに気がつく。すぐに砥石を取り出して研いでおく。じゃがいもの皮むきも、砥石の角を使って研いでみる。フライパンなどの調理器具も、「もうそろそろ買い換えだ」。

 そうして、毎日の食事を「うん、これはおいしい」といって食べる。

 もっとも、先日作ったパエリアは、孫たちは「うまい」といって食べてくれたんですが、えび、貝柱の味が生きていなかった。「再挑戦だ」。

 これがお互いにボケない貴重な第一歩ではないでしょうか。食べることは生きることの基本です。

 「気ままに生きる」というのは、確かに聞こえはよい。しかし、自分の気ままとは、身体だけでなく、意識や感覚の世界でも、廃用性萎縮が起こっているということでしょう。

 偕老同穴といいましたが、夫婦はもちろんですが、親子、孫、あるいは兄弟や友達。お互いにしっかり干渉しあって、干渉というとことばが悪いけれども、コミュニケーションを密にして、だんだんに狭くなろうとする自分の世界を広げていく。そのような努力です。

 このあたりは、六〇代で、しがらみから解放されたばかりの人たちと、ひと年取って、先がなんとなく見えてきた七〇代の人たちとの違いかもしれません。

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偕老同穴3

 早瀬氏の『人はなぜボケるのか』には、アルツハイマー病についての医学的な解明の現状を述べています。しかし、どうすればボケないですむかの回答は書いてありません。それよりもショッキングなことは、この本が離婚の裁判の話から始まることです。

 Y氏は、アルツハイマー病の妻を離婚し、別の女性と結婚しようとする。結局夫の名前も顔もわからない妻には、配偶者の権限がないということで離婚が成立する(一九九〇年長野地裁)。Y氏はその後別の女性と結婚する。

 この判決には、それぞれさまざまな感想があるでしょう。私も簡単には賛成はできません。どのような事情があったにせよ、長年一緒に住んできた夫婦です。どちらが倒れても、「一生介護する」という言葉。そう言いたいのです。しかし、口で言うことは簡単ですが、ことばと現実には大きな隔たりがあるのはわかります。

 でも、その前に、お互いがボケる前に、なんらかの方法はなかったのでしょうか。つまり、夫婦でお互いにぼけないように努力することは出来なかったのか。そんな思いがします。男が退職したらどうするかの話がさかんに言われます。しかし、ボケないように夫婦でどうするかの話はあまり出てきません。

 その典型は昨年の暮れに評判になった『熟年離婚』というドラマでしょう。渡哲也と松阪慶子が夫婦を演じていました。夫が定年退職の日に、妻は離婚を申し出ます。「自分の才能を生かす仕事をしたい」。

 こうなると、結婚というものは一体なんでしょうね。ただ子供を作る期間なんでしょうか。子供を育てるのに必死になって、それが一応の区切りがついた。いよいよ夫婦だけの時間ができたときになって、分かれてしまう。

 私は未だにこの二人がなぜ離婚しなければならなかったのかわかりません。一緒に生活しながら、それぞれに自分を活かす生き方はあるでしょう。日ごろの関係は一体どうだったんでしょうね。この作者の意図、経歴、そんなことをいろいろと考えてしまいます。

注 早瀬圭一 『人はなぜボケるのか』 新潮社 1994

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偕老同穴2

 廃用性萎縮は、体の筋肉についてはよく言われます。年を取ってから、一週間も入院していると、足の筋肉がなくなって動けなくなる。若いときにも同じことが当然起こっているのでしょうが、回復が早いのでわからないだけでしょう。

 勤務先の都合で五年間、車で通勤したことがあります。田舎道を走るときには、カントリー・ミュージックなどを聞いて、若いときに留学したアメリカの南部の風景を思い出していると、片道五〇キロがそれほど苦にはなりませんでした。

 続いて、こんどは大阪の湾岸道路を経由して片道七〇キロ。ジャズ・ボーカルなどを聞いていると、これも楽しいドライブでした。とりわけ冬などは、朝暗いうちに家をでて、だんだん空が明るくなっていく様子は、まるで自分が映画の主人公になったようでわくわくしたものです。

 ドライブというのは、慣れてくると運転そのものは単調なだけに、さまざまな思いが頭に浮かんでくる。そういえば『セールスマンの死』という戯曲がありましたね。主人公が車を運転しながらの回想でした。

 あるいは、CDを聞く。ビリー・ホリデイのAll Of Meなど、歌詞からいろいろと想像しながら走ったものです。ビリーのしわがれた声には、熟年になってからでしかわからない渋みがありました。時には曲に乗りすぎて、スピードを出しすぎたことも。しかし、よい面ばかりではありませんでした。

 脚の筋肉が弱ってきたのです。二キロの距離を歩くのがおっくうになってきたのです。一念発起して、公共機関を使って通勤することにしました。片道三時間半。駅まで歩くのはもちろん、階段を上がったり降りたり、座ったり立ったり。もう六〇歳を越えていましたが、元の脚力を取り戻すのに五、六年はかかりました。

 それだけではありません。通勤の車中では、本が読める。時には学生の作文もチェックできる。それに、そのときどきの乗客のファッションも観察できるのです。 先日も女性の「腰パン」を見て、仰天しました。下着まで見えるのです。大学で学生に聞くと、最近は女の子にも流行っているとのこと。「美的感覚はどうなってんだ」思わずつぶやきました。このように精神的にもさまざまな刺激があるのです。今も週に一回だけですが、こうやってヒューマン・ウオッチングをしています。これがまた老夫婦の話題にもなります。

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偕老同穴1

 「一番ショート○○」

 野球場の大きな掲示板に選手の映像が大きく映し出される。外野席では応援団が太鼓やトランペットでがなり立てる。大変な騒音で、耳にジンジンと響く。

 孫に誘われてきたのです。しかし、球場の騒音には耐えられないかもしれない。そう思って、飛行機に乗るときの耳栓を持ってきていました。まさに正解でした。

 両耳に耳栓をつめて、野球を眺めていました。馬鹿みたいでしょう。でも鼓膜が破れそうだったのです。でも、回を過ぎる頃になると、どうやら耳もなれてきたようです。ショートのファインプレイもあって、だんだんに試合に引き込まれてきました。知らぬ間に耳栓をはずしていました。もっとも一杯のビールで、感覚が鈍くなってきたのかもしれません。

 孫がプロ野球の公式戦の無料招待券を学校から貰ってきていうのです。「おじいちゃん一緒に行こうよ」。球場の魅力もあったのです。ドームと違ってこの球場は二階席にすわっていると、バックのほうにぐるりと緑が見える。それに日が暮れるにしたがって、だんだん暗くなる空と対照的に浮き上がってくるフィールドの芝生、その上で動き回っている選手の姿が幻想的に見えるのです。ビールでも飲みながらみていると、なんともいえない快感が湧いてくるのです

 それはいいのですが、球場のやかましさには、どうも耐えられない。というのも、いつも気ままに生活しているのです。年寄り二人の生活では、それほど大きな音を聴くこともない。いたって静かなものです。

 静かというのは、聞こえがいいかもしれません。科学的に言うと、耳の許容量が減ってきているのです。狭い音の範囲で生活をしていると、その範囲を超えたものは受け付けなくなる。つまり、耳にも例の「廃用性萎縮」というものが起こっているのでしょう。だからこそ、耳栓を持参しながらも、これで耳の活動範囲がすこしでも広がるだろう。そう思ったのです。

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本物の英語の勉強ー補遺

 三ヶ月ほどもかかりましたが、小学校から退職後までを通して、英語の勉強について考えてみました。もう少し説明が足りなかったところがあるようです。

一、生活言語の欠如

 学校教育の全体を通して、これまでの英語の勉強では、日常生活に関する表現が全然ありませんでした。学生たちがホームステイに言っても、ホスト・ファミリーと全然会話ができなかったのです。一〇年間勉強しても日常の会話が話せないというのは、まったく当然なのです。英語教育で扱っていなかったのです。小学校から英語の授業が始まると、この段階で、生活に必要なことばの学習が出来るでしょう。

 文法を教えたりしないで、ぜひ服装や食事、決まりきったあいさつなど日常生活に必要なことが言えるようにしたいものです。これに関しては、外国の出版社のテキストがよく出来ているようです。ぜひ書店で検討して見てください。

二、何のための英語か

 ESPという分野があります。パイロットは、それ用の英語を勉強しなければ、飛行機は飛ばせません。医学では、医学の用語がわからないと診断や研究に差し支えるでしょう。このように、特殊な分野の勉強をするのが、English for Special Purposeといわれるものです。

 ところが、外国語として勉強する私たち日本人は、それよりも前に何のために勉強するかをきちんとわきまえて取り組むことが必要です。ことばの世界は広いのです。文学もあれば経済もある。スポーツ、旅行などの趣味も、というように、人間の活動全般にわたるのです。漠然と勉強したのでは、進歩の状況もわからないし、成功感も持てません。

 さしずめ小学校のときは生活言語です。日常生活に関することが表現できる。中学校では、一般的な英語の基礎。英語の文章を自分のものにすると同時に、語彙をしっかり増やす。高校ではAcademic Englishをはじめ社会生活の基礎。新聞やテレビのニュースなど概略がつかめるように。大学では自分の将来にあわせたESPということになるでしょうか。できるならば、奨学金などを貰って外国の大学に留学して、世界的な視野で物事が考えられるようにしたいものです。

三、高い教材(5,000円以上)は買わない。

 何万円もする教材があります。内容はそれぞれに優れているかもしれません。しかし、あなたの学習目的にあっているか。あなたの好みに合っているか。あなたの学習速度にあっているか。そこまでは考えていません。それに、途中で気分が変わるかもしれません。

 それよりも、あなたの気分次第で、そのときの自分の気持ちに合わせて教材を探してください。探す喜びもあるのです。

四、無料のものを出来るだけ活用する。

 FM COCOLOでは朝五時から六時半まで、BBCWorld Newsを放送しています。パソコンがあれば、ABC.comBBC.comなどで、いつでもニュースや解説が聞けます。新聞はWashington Post, Herald Tribuneなど、世界の主な新聞はいつでも見ることが出来ます。難しいと思われるかもしれませんが、やさしく言い直した番組もあるのです。ぜひ調べて見てください。

 今私たちは、こんなに便利な時代に生きているのです。世界言語になった英語は、いまや特権階級のものでも、一部の人のものでもありません。みんなのものです。気楽にやりましょう。そして、外国人と気後れすることなく、堂々と英語で付き合いましょう。

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本物の英語の勉強ー退職後2

 物事を柔軟に考えたいものです。もう仕事をしているわけではないし、時間に追われるわけでもありません。のんびりと取り組みましょう。

 とくに、勉強しようという生真面目な態度は、もう捨て去るべきです。今日勉強したことを明日には忘れているかもしれません。でも、忘れることを嘆くのではなく、忘れることを楽しむのです。そして、さまざまな考え方や、表現方法を楽しみましょう。

 歌でも、映画でも、気に入ったものがあったら何回も聞いてみるのもひとつの方法です。若いときに気がつかなかったことに、改めて気がつくかもしれません。

そういえば、『カサブランカ』には、「君の瞳に乾杯」と訳されたハンフリー・ボガートの名せりふがあります。今DVDを見直してみると、”Here’s looking at you, kid.”とあります。

 “kid” と女性に対して言うのは、今でもできるのかなあという社会言語学的なことだけでなく、すらりと言ってのけたその言葉にこめたボガートの心境、これが「男らしさか」と、そんなことを思ったりもします。

 以前「歌から始まる○○語」という番組がありました。これも楽しかったですね。私は、ぜひこれを勧めたいと思います。今頃の歌にはリズムが合いませんが、私たちが若かりし頃の歌を英語で聞いて見ましょう。ナット・キング・コール、ペリー・コモなど、甘い声で、発音もきれいです。ドリス・デイの「ケセラ・セラ」(What will be, will be)もいいですね。できたら、それに関する解説を英文で読むようにするとよいでしょう。

 いや、英語でなくても、中国語でも、ハングルでも、なんでもやりたいと思ったら、そのときがスタートの吉日です。やってみましょう。

 NHKの語学番組を見るのもいいでしょう。ただし、文法的な説明が多いものは敬遠しましょう。私たちは、勉強するのではありません。

 先ほど紹介した電子辞書は、ぜひ購入してください。音声も入ったものが、大変参考になります。私の家内は、その辞書で百人一首を聞いています。改めて日本語のリズムにも親しめます。

 ことばの学習の基本は、

Do what you can with what you already have.

(あなたが、すでに持っているものを、最大限に活かしましょう)

ということです。きっと気持ちが若返ります。

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一〇〇分の行列ーコラム8

 「今一〇〇分の待ち時間です」

 それでも少しずつ進んでいる様子だったので、並ぶことにしたのです。いや何分であれ、若沖展を見るためにわざわざ京都まで来たのですから、並ばないわけにはいかなかったのです。

 でももうすぐと思ったのは、入場券売り場まででした。券を買ってから行列は敷地の中を右に曲がり左に曲がって、延々と続いています。確か万博で月の石をみるのにこれぐらい並んだことがあると思いながら、時々足を曲げて運動をしながら立っていました。

 今日は平日です。あと三日しかないのはわかっていましたが、混み具合がこれほどとは思いませんでした。なかには、相当のお年寄りや、小さい子供をつれた夫婦もいました。みんな黙々と立っていました。会場に入るまでに、二時間ぐらい待ったでしょうか。

 でもまず、第一展示室で、これまで見たことのない墨江の世界に圧倒されました。『立鶴図』では武蔵の『枯木鳴鵙図』を思い出しながら、その穏やかさにみとれていました。そして鹿苑寺の襖絵の数々、なかでも『月夜芭蕉図』にはなんとも言えぬ雄大さと落ち着きを感じました。

 さらに三〇分ぐらい待って第二展示室に入ると極彩色の絵の数々。これらは一幅の絵の前で、じっと一人でゆっくり鑑賞したい思いでした。鶏もよかったのですが、むしろ『紅葉小禽図』の落ち着いた雰囲気が印象に残っています。

 これらの絵はこんなに三十三幅が一室にあるのでなく、一幅か二幅を一室において、印象を改めながら次々にみていくことが出来たらどんなにかすばらしかったでしょう。(五月三一日、この日入場者は一〇万人に達したそうです)

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