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「るんだ」とは何だ4

 さて、日本人はどのような歌が好きなのでしょうか。1980年という25年も前のものですが、ここにひとつの調査があります。(鈴木明 『歌謡曲ベスト1000の研究』)それを参考に、トップの一〇曲を今の学生たち、つまり二〇歳前後に聞いてみました。まるで囲んだ数字は、このベスト10の順位です。

 『影を慕いて』⑤は、題名を知っているものも、メロディを知っているものもゼロです。『くちなしの花』②、『星影のワルツ』③、『北の宿から』④、『北国の春』⑧にも数票しか入りませんでした。つまり、ベスト10の半数は今の若者には通じないのです。

 『瀬戸の花嫁』⑨、『青い山脈』①を知っている人がかなりいたのは驚きです。特に『青い山脈』は、一九四九年、終戦からまだ四年しかたっていないときに現れたのです。

 わけても、二番の「古い上着よ さようなら さみしい夢よ さようなら」には、心からの共感を覚えて、高校生だった私たちは、蛮声を張り上げて歌ったものです。

 それが、なぜ今の若者に知られているのでしょう。おそらくは、その後何回かリメイクされているからかもしれません。それとも、「古い上着よ さようなら さみしい夢よ さようなら」と、若い連中もみんな心の中で思っているのでしょうか。

 ところで、嬉しいことがありました。『津軽海峡・冬景色』⑥は、約半数が知っていました。そして、『荒城の月』⑦、『赤とんぼ』⑩は、ほとんどの学生が知っているのです。共通のものがあったのです。

 ついでに『ふるさと』『夕やけ』も聞いてみました。こちらもほとんどの学生が知っていました。

 今の年配者と若者の間に、共通で歌える歌はないのではないかと心配していましたが、大丈夫でした。

 『荒城の月』も『赤とんぼ』も『ふるさと』も『夕やけ』も、みんなで一緒に歌えるのです。時にはハモりながら、大きな声で歌えるのです。

 「るんだ」は、単なる泡沫でした。

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「るんだ」とは何だ3

 さて、Ⅴの和風一色というのはどうでしょう。

二〇〇七年八月、作詞家の阿久悠氏が亡くなって、彼の業績を振り返っているうちに、日本の歌謡曲のすばらしさを見直しました。特に、彼の歌の歌手の個性を最大限に活かした手法。そして、時代を読む力はみごとだったと思います。

 嘆き悲しむ「女」を描くのでなく、自分なりに生きようとする「女性」を描いたという『ジョニィへの伝言』。

♫ ジョニーが来たなら伝えてよ わたしは大丈夫

もとの踊り子でまた稼げるわ 根っから陽気にできてるの。(1973

 ちょうど時代の変わり目だったのでしょうか。今までの演歌にない女性像が鮮明に記憶に残っています。時代はどんどん変わったのです。

♫ 大きな窓と小さなドアと・・・

真っ赤なバラと白いパンジー

子犬の横にはあなた あなた。(1973

 この小阪明子の『あなた』では、男性はもはや女性の描く家庭の単なる点景にしかすぎなくなった。(阿久悠『愛すべき名歌たち』岩波新書1999年)

♫ 夕暮れに 仰ぎ見る輝く青空

日暮れてたどるは 我が家の細道

狭いながらも楽しい我が家

愛の灯影の さすところ

恋しい家こそ 私の青空 (My Blue Heaven 1927 堀内敬三訳)

 確かその昔、私の父親は口ずさんでいたと思いますが、その頃とは、まったくの様変わりです。

 昭和六四年。私はアメリカと日本の間を何回も行き来していました。空港で昭和天皇の葬儀の行列をかいま見ながら、「激動の昭和は終わったんだ」。

 この年、美空ひばりの『川の流れのように』が流れたのです。美空ひばりは、私にとっては、まったく別の存在でした。Tennessee WaltzToo Youngに始まって、英語の歌にどっぷりつかっていたからです。でも、ときどき聞こえてくるこの歌には、何か共感を覚えました。

♫ 知らず知らず 歩いてきた

細く長いこの道・・・

でこぼこ道や 曲がりくねった道

地図さえない それもまた人生・・・

ああ 川の流れのように おだやかに

この身を まかせていたい。(秋元康作詩・見岳章作曲、1989

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「るんだ」とは何だ2

 もちろん音楽の好みには、個人差が大きいのです。だから良い悪いは一概には言えません。でも、好きな歌は年代で変わるのではないかと面白い説を唱えた人がいます。それによると、

Ⅰ.7~14歳は、テレビ漫画主題歌、CM、と童謡、唱歌

Ⅱ.15~19歳、20代は、ニューミュージック、ロック、ディスコなど

Ⅲ.30代は、外国の新しい音楽から演歌へ好みが変わる

Ⅳ.4050代は、演歌が一位、タンゴ、シャンソン

Ⅴ.60歳以上は和風一色 

(牧田徹雄「世代別好きな歌手」NHK世論調査研究所)
 改めて考えてみると、昭和ヒトケタにとっては、幼児期は空白だったような気がします。もちろん母親の子守唄などはあったでしょうが。私は外地で小さいときを過ごし、それから田舎に帰ってきたので、町の中に育った人とは、音楽の受け入れも大分違うでしょう。

 「紀元は2600年」という日本の皇紀を祝う歌があふれ、「勝ってくるぞと勇ましく・・・」と出征兵士を見送った。でも、この歌は、今思い出してみてもメロディ自体が、何か寂しいですね。こうやって、一家を背負う若者が、次々に戦地へ送り込まれたのです。

 そのうちに、ラジオから流れてくるのは『軍艦マーチ』になります。一年もすると、それが『海行かば』に変わっていく。

 だが一方で「私のラバさん酋長の娘」といかにも陽気な歌。「花も嵐も踏み越えて・・・」という『旅の夜風』、「山の淋しい湖に」という『湖畔の宿』なども記憶に残っています。

 終戦と同時に外国、特にアメリカの音楽が怒涛のように入ってきました。このあたりからは、まさに人さまざまでしょう。つまり、Ⅱ,Ⅲ,Ⅳが、一度にまわりにあふれたのです。

 そんなことを考えると、年代で違うというよりも、私たちはまさに、時代の流れにほんろうされてきたといった方が本当でしょう。

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「るんだ」とは何だ1

 「先生『るんだ』とは、何の意味ですか」

「『るんだ』? わからないね。どこで聞いたの?」

「テレビです。ことばはテレビで勉強するのが一番ですから、朝のドラマを見ているのです。でも『るんだ』がわからない」

大学で韓国語を教えている韓国人の先生が話しかけてきました。

 家に帰ってから、孫に聞いてみました。しばらく歌を口ずさんでいました。

「風が流れていく絶え間なく

 伝えようとして

 るんだ」

 思わぬところで区切って、しかもアクセントがあるので、わからなかったのです。しばらくは、「るんだ」「るんだ」と言って大笑いしました。

 ときどき「のど自慢」を見ることがあります。以前は、外国人の学生にみせようと思って録画しました。日本語の学習に、そして日本文化の紹介に、格好の教材だと思ったのです。

 しかし、とりやめました。何を歌っているのか全然わからないのが出てくるのです。

「もがもがもー、がもがもーが、もがも」

口はあけない。歌詞に意味があるのかどうか、全然伝わらない。それなのに突然鐘がなりだすのです。

 こんなわけのわからん歌が、何で合格なんだ。最初は憤りを感じましたが、いまでは諦めの境地です。

 言葉というものは、一かたまりのつながりと、上下の上がり下がり、そして強弱の組み合わせでできています。そのつながりをぶち壊してしまうと、それは言葉とは言えないでしょう。

 そういえば、テレビのカラオケ教室で、講師が言っていました。

「歌詞は、日本語と思ってはいけません。英語か何か別の言葉と思って、ただ音を出していけばよいのです。」これが指導者の言うべきことばだろうかとつい思ってしまいます。

 自分たちの言葉に誇りを失った人間―そういう自己否定の人たちは、いったいどちらに向いて行くのでしょうね。なんて思うのは、年寄りの思い過ごしでしょうか。

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旅の醍醐味3

 クッタラ湖の水面にはさざなみは立っていましたが、鏡のようでした。流れこむ川も流れ出る川もない火口湖です。右手に太平洋があって、狭い平野からそそり立つように伸び上がった火口に水がたまっているのです。まさに神秘的な風景でした。

 火口湖といえば、鹿児島の大浪池を思い出します。

「お客さん、どちらまで行かれますか」とバス・ガール。乗客は一人減り、二人減り、そして私ひとりになってしまったのです。おまけに窓の外は真っ暗。

 各駅停車で鹿児島駅に降り立ったとき、桜島の噴火であたり一面灰ばかりでした。

「どこか見学するところは」と通りがかりの人に聞いても、「さあね」というばかり。この灰では、どこに行ってもだめだという。

 「霧島はどう」という人がいました。そこで早速林田バスの停留所へ行きました。そこで、霧島温泉にいくバスに乗ったのです。もう五〇数年も前の話です。

 「わからんのです」と一応の事情を話しました。

バス・ガールは驚いた顔をしていましたが、運転手と相談していました。

「運転手さんも私も今晩泊まるところがあるので、そこでよかったら紹介します」このあたり鹿児島弁のアクセントはきちんと覚えていません。

 翌朝どこか行くところはないかと、宿の女中に聞いてみました。一時間ほど上ったら大浪池があるというのです。一人で登っていったのです。

 火口湖には独特の雰囲気がありますね。まるでこの地球上の景色ではないような、月面に居るような気さえします。それに水の出入りがないというのも神秘的です。

 クッタラ湖の水は沁みこんで登別温泉に噴出しているのでしょう。その登別では、どうやら温泉戦争が勃発しているようでした。新しいボーリングが始まっていたのです。このいきさつについては、今度行ったときに土地の人に聞いてみようと思っています。

 行きずりというか、通りかかった人と話をする。その土地の訛りがなんとなく新鮮で懐かしいのです。

 昨年のことでした。指宿に行ったときに、さすがに耳がいいのですね、当時小学校二年生の孫が、「今の人の発音がおかしかった」と言ったのです。

 「それは、おかしいのでなく、この地方の話し方だよ。地方々々で話し方が違うんだ。面白いだろう」

 目的地を探しながら、土地の人と、なにやかやと話しながら、新しい経験を味わう。

 それがあるから、しばらく家にいると、なんとなく出かけたくなるのです。

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旅の醍醐味2

 人通りが全然ないのです。「バス停を降りて10分ほど歩きますよ」と、駅の案内所では教えてくれたけれども、どうもそれらしい建物は全然見当たらないのです。

 バスを降りるとき、運転手は、「あの向こうの屋敷では」と、はるか前方の斜面に見える大きな屋根を指差したのです。しかし、案内所の人は、「祝津三丁目」で降りるんですよと、わざわざ地図にバス停の名前を書き込んでくれていたのです。ここに間違いないとバスを降りたのです。

 でも行く先には小高い丘があるだけで、それらしい建物は見当たらない。少し心細くなってきました。

 ちょうど軽自動車が登ってきたので、手を挙げました。ゆっくりとまりました。この道を歩いて上がる観光客はあまりいないのかもしれません。

 「そこの坂を上りきると、左手に見えますよ」

 若い女性がにこやかに教えてくれました。

 インターネットで、事前に食事と案内を予約しましたが、たしかに、その予定がはいっていました。

 「今日は大変見学者が多いので、お二人だけでというわけにはいきませんが、ほかの団体と一緒でいいですか」

 ゆっくりと食事をしてから、ほかの団体についていきました。

 一段作るのに一人の大工が一週間かかったというたも材の階段や、春慶塗の廊下。足の裏で、その感触を確かめながら歩きました。柱や梁や欄間だけでなく、多くの書画。これらは一見の価値は十分にあると思いました。もっとゆっくりみたかったのですが、なにしろ案内は先に先に行ってしまいます。

 豪勢さだけではありません。民族学的にも貴重なのです。かわや(便所)も、こったものでした。男性用の筒のような便器が、九谷焼なのです。しかも、これは男性だけでなく、女性もこれを使っていたというのです。当時は女性も立ったままで小用を足したのです。

 男の子にも便座に腰掛けて小便をするようにしつけている母親もいるようですが、こんな話を聞くと、ひっくり返るかもしれません。それが現実に証拠として、今でもきちんと残っているのです。

 東京で三越デパートを作るのに五〇万円かかったというときに、この屋敷ひとつに三一万円かけたというのです。案内人の説明ですから、ある程度の誇張はあるのかもしれません。

 いずれにしても、当時のにしん漁の豪勢さもさることながら、お金の使い道について考えさせられるものでした。こうやって形にして後世に残してくれたことを、高く評価してもいいのではないでしょうか。

 この豪邸もいったんは人手に渡って、それを札幌の○○さんが買い戻して補修したということです。今では小樽迎賓館として運営されています。バラバラにされなくて、よかったですね。

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旅の醍醐味1

 「目的地の気候は晴れ。気温一〇度です」

 こう機長のアナウンスがあったとたんに、機内は「わあ」という喚声ともいえるどよめきがありました。これまで、もう何回となく飛行機に乗っていますが、このように乗客がいっせいに反応したのは初めてです。

 九月二四日のことでした。そのとき神戸の気温は三四度、九月に入っても暑く、雨も降らずにからからの天気でした。半そでのTシャツの乗客が多かったのです。

 札幌に降りたとき、「ああ、こんな快適な気温があったのだ」と、ほっとした気分でした。それまでは、暑さを我慢することで、まるで自分を責めているような感じさえしていたのです。血圧が上がるのも当然です。

 夕方にタクシーに乗りました。運転手は「どちらからですか」とていねいに聞いてきました。長袖のシャツに合いの上着、その上に薄いジャンバーを羽織っていました。家内も同じ服装です。

 気温一〇度でも、こちらの人は長袖のシャツぐらいで歩き回っています。もちろん勤め人は上着を着ていますが、その上に何かを着ているものはいません。したがって、私たちの服装はいかにも旅行者です。気候にもなれが必要ですね。

 北海道の空は好きです。真っ青の空に白い雲がところどころに浮かんでいる。フィンランドやスウェーデンの北欧の空もきれいでした。このようにのどかな空は、日本では見られないと思っていました。

 紀伊半島では、和歌山の白浜から先に行くと、それまでの濁った海の水がきれいな青色になります。しかし、空はそうでもありません。紀伊半島の先端の串本まで行っても、岬の上に薄黒い空気の層が覆いかぶさっています。日本全体がこの汚染された空気でコーティングされているような感じなのです。

 それが、この北海道まで来ると、すっきりした空が見られるのです。乱反射のまったくない青い空です。空気がきれいでおいしい。この希少価値に、土地の人は気がついていないかもしれません。

注 大阪管区気象台の発表では、九月の平均気温は、神戸で27.3度と過去最高。大阪市で九月に真夏日にならなかったのは、29, 30日も含めてわずかに四日のみということです。(朝日新聞102日)

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ゴーヤのカーテン3

 森田療法は、特に不安や恐怖に関わる神経症に高い効果があるといわれています。その不安とか恐怖について、有名な話があります。

 The only thing we have to fear is fear itself.

(我々が恐れなければならないものがあるとすれば、それは恐怖そのものである)

 これは、1933年のアメリカの大統領の就任演説の中の言葉です。世界的な大恐慌の最中の演説でした。人々の心は将来に対する不安で萎縮してしまっていたのです。それをこの言葉でふるい立たせたのです。

 ルーズベルトという名前は、昭和ヒトケタの人にとっては忘れられない名前ですね。校庭にわら筒を立て、その上にチャーチル(当時のイギリスの首相)とルーズベルト(当時のアメリカの大統領)の顔を書いた紙を張り、竹やりを持って走っていって、「やーっ」と突き刺す訓練を、くる日もくる日も受けたのです。

 大恐慌時代から第二次大戦までの長い期間を勤めていたとは考えられないかもしれません。しかし、ルーズベルトは一一年もの長きにわたって大統領職を務めたアメリカ歴史上唯一の人物でした。

 その超人的な人物も、ついには恐怖に負けたのです。1942年のことです。西海岸およびハワイに住む日系アメリカ人の全員、そのほか各地のおもな日系人を人里離れたキャンプに強勢収容しました。日系人たちがそれまで一生懸命に作り上げてきた地位も財産も、一瞬にして無に帰したのです。

 戦後になって1987年になりますが、レーガン大統領は、アメリカ政府としてその非を認めて謝罪し、収容された日系人になにがしかの給付金を支払いました。

 「これは苦労した両親のものだから」と多くの日系三世四世は、自分たちもお金を出して親たちと一緒に日本に里帰りして、先祖の墓参りをしたそうです。「歴史は歴史だから」と日系の友人から聞きました。

 恐怖(Fear)は、思わぬ方向に人を追い詰めてしまいます。今では、テレビのコマーシャルもニュースも、解説者の言動も、毎日毎日不安や恐怖心をあおることばかりです。

 それに動じない心を作るということは、大変なことです。座禅をしても、自立訓練をしても、なかなか追いつかないような気がします。

 でも、真っ向から取り組まなくても、ひょっとしたことで、対処できることがあるかもしれません。ゴーヤのカーテンはまさにそのひとつでした。

 「あるがまま」でいいいではないか。何を今さら、と思うのです

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