子供の自我の確立3

 これは私自身への反省も含めてのことです。親と子のかかわりという観点から考えると、子供が六歳ぐらいまでは特別な時期だといえそうです。特に二人目の子供ができたりすると、母親は二人の子供への対応で、もう毎日が必死の戦いです。

 それで、父親の方はというと、そのころ職場ではかなりの地位になって新しい状況で力を発揮するのに精一杯です。それに残念ながら、家庭の父親としての自覚はまだ十分に育っていないのです。ある意味では、家庭は危機的状況にあるときではないでしょうか。

 子供の世話や家事をめぐってはお互いに口論になりやすい。実際に両親の間で言いあいが始まると、こどもは部屋の隅で小さくなって成り行きを見守っています。精神的にさらに不安定になっていくのです。そのような中では、今後の生育の核になるしっかりしたエゴは育っていかない。

 ここにこの話を持ち出したのは、私たち老人の活躍の場が、このあたりにあると思うからなのです。これまでは、祖父母の子供へのかかわりは、「小遣いやおもちゃを無定見にあげて甘やかすから困る」とか、「今更小さい子供の子守などの重労働は真っ平だ」というものでした。親からも祖父母からも、どちらかというとマイナスのイメージで語られることが多かったのです。

 しかし、そうばかりとはいえないのです。一度子育てを経験した祖父母は、子供の様子を見ていて、例えあることができなくても、真正面から叱かりつけたりはしません。今この子の内面では、この部分は成長しているが、この部分の能力はまだこれから成長していくのだなどと、割合に客観的に考えることができるのです。

ボール投げの相手、カルタ取り、百人一首、将棋や囲碁、さらにはオセロなど新しいゲームでも、子供にやり方を聞きながらできます。勝ったり負けたりしている。しかも一方では、老人の方も自分の衰えかけた頭脳の回路の回復を図ることができるのです。私の家では、今小学校四年の孫は、一時期、おばあちゃんの顔を見ると、将棋をしようと言っていました。「ちょっと待って」「いやダメだ」などと笑いながらやっている。

 このようなゲームの向こうには、常に人間が存在しているのです。どうしたら嬉しいのか、どうしたら悲しいのかという人間関係のやりとりです。

 そして、それ以上に見逃してはならないのは、言葉の持つ力、すなわちコミュニケーションの基本を学んでいることではないでしょうか。自分の気持ちを言葉で伝え、言葉で相手の気持ちを察する。テレビゲームや、ゲームセンターにひとりで行って、機械という硬いものを相手にしているのとは、大きな違いがあるといえるでしょう。

 このように考えてくると、我々も社会も老人の役割をもっと見直してもいいのではないでしょうか。もちろん子育ての主導権は親にあって、祖父母にあるわけではありません。しかし、親が忙しいときに子供を見つめ、子供の目の高さで相手ができる祖父母の役割を、若い者も年寄りも、そして社会も、もっと認識すべきではないかと、未成年の事件が起こるたびに感じるのです。 

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子供の自我の確立2

 もう七〇数年も前のことですが、スキャモンという心理学者が面白い学説を発表しました。

 人間は全体の能力が一様に成長していくのでなく、それぞれの部門で成長の度合いが違うというのです。今でも「成長曲線」として心理学辞典に出ているということは、その後それを覆すような新しい発見がなかったと考えてよいでしょう。最近、認知心理学では同じようなことを、モデュールという概念を使って説明しているようです。

彼の学説によると、人間は一様に成長していくのではなくて、一般系、神経系、リンパ系、生殖系の四つの分野に分けて考えられる。しかもそれらが、それぞれ別々に発達するというのです。

 その中で特に注目したいのは神経系です。神経系は、脳や目、耳などの感覚器官をまとめたもので、その発達が一番早いのです。しかも、一二歳ぐらいまでで、つまり小学校の時代までに、完全に成長しきってしまうというのです。

 ボール投げに象徴される動的感覚がどれぐらい成長するか(スポーツが得意かどうか)、音楽や音に対する感覚(音痴になるかどうか)などは、生まれつきという言葉がよくつかわれますが、彼の理論を考えると、それらは子供が小さいときに、親が自分の子供とどのように関わったかで決まってしまいそうなのです。

 スポーツの世界では、卓球の愛ちゃん、野球のイチロー、そして今ではゴルフの藍ちゃんなどが有名ですね。アテネに出場の選手の中にも、レスリングの三宅や砲丸投げの室伏など、親が元選手で、子供のときから仕込まれて、天才的な能力を発揮している選手がぞくぞくと出てきます。

したがって、この説はまんざら見当はずれではないでしょう。スポーツだけではありません。鈴木メソッドに代表される音楽やそのほかの芸術的才能についても、親も含めた環境の影響がどんなに強いかはよく知られています。

 問題は、この特定の才能だけではないのです。このような幼児期には、そのやりとりを通じて親が子供と真正面から向かい合っているということ。そして、そこには、別の大事な意味がありそうなのです。

それは、子供の生育に必要な「自我の確立」です。ボール投げの時を考えてみましょう。「よし、いいボールだ」とか、「こら、どこに投げてるんだ」などのやりとり。それは、言葉を通じて子供と親が一対一で向きあっていることになりませんか。その人間対人間の動きを通じて、子供のなかに安定した自分というものが育っていくと思われるのです。

 もちろん子供同士で遊ぶことも重要でしょう。しかし、運動神経や芸術感覚が十分に育つか育たないかは、子供が幼いこの重要な時期に、親が子供にどれだけかかわったかの度合いによると言えるでしょう。それが、ひいてはこどもの今後の社会とのかかわりに、大きく関係することになりそうなのです。

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子供の自我の確立

 最近の世相をどう考えたらよいのでしょう。半世紀以上を生きてきた人間にとっては、まったく「想定の範囲」を越えた事件が起こっています。

もう数年も前のことになってしまいました。長崎では一二歳の少年が歳のこどもを駐車場の屋上からつき落として死亡させるという事件がありました。それも通常の事件でなく、はさみで幼児の陰茎を傷つけた後で突き落とすという異常さだったと、ある週刊誌は報じていました。

その近辺ではこれに近い事件がすでにいくつか起こっていたというのですが、加害者が少年とは予想もできなかった。商店街の監視カメラに、人が一緒に駐車場の方向に歩いているのが写っていて、やっとその少年を、犯人として割り出すことになったということです。

 これについては、当時の青少年問題担当大臣が、「親は、市中引き回しの上打ち首にすべきだ」と述べて、物議をかもしたという余談もあります。

 この長崎で起こった事件だけではありません。〇四年には小学校年生の女の子が友達をカッターナイフで殺した事件もありました。そして〇五年には、高一の少女が母親に毒を飲ますという事件も起こっています。

 これらは、神戸の生首事件と合わせて、少年の心の中にどのような暗闇があったのか見えてこないということで、親たちに恐れられています。子供の中で、親の目にみえないblack boxがだんだんに成長していく。ひょっとして、このようなblack boxがうちの子にも隠れていて、将来なにかの事件を起こすかもしれないという不安です。

 例によって詳しいことはわかっていません。この子供たちがどのような育ち方をしてこのような事件を起こすようになったのかは、ひとつも解明されてはいません。いや個々の事件ではそれぞれに解明されてはいるのでしょう。しかし、それが公表されないので、育児上、あるいは指導上の問題として浮かび上がってはこないのです。

 ただ、長崎の少年は五教科の成績はよかったが、音楽、美術、体育といういわゆる技能教科はできなかったということを、ある週刊誌が報じていました。音楽、美術、体育というと、いわゆる教育熱心な親からはないがしろにされそうな科目です。でも、このことは何かを示唆してはいないでしょうか。

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